岩下長十郎

岩下方平長男。フランス・ベルギー貴族モンブラン伯爵の世話でフランス留学のため同行。フブール氏に師事、普通学など学ぶ。岩倉使節団では二神童と呼ばれた一人でフランス語に堪能。明治6年に陸軍砲兵大尉となったが、フランス語の坦能さを買われて、司法省でのボアソナードの 司法講義の通訳も務めた。

明治10年、陸軍の競走馬の生産、育成に関わった記録がある。霞信彦氏『矩を踰えて』-明治法制断章によれば、彼は『陸軍刑法』の作成メンバーに加わり,「異色の陸軍刑法編纂官」「法典近代化の一端を担った人物」として評価されていたが横浜港で水死、28歳であった。

妻・類は東郷平八郎の長兄東郷実猗の娘で、海江田信義の妹・勢 似の娘である。息子の家一(かいち、1879‐1961)は子爵となり、丸ノ内ホテル、ヤマトホテルの支配人を務め、逗子なぎさホテルを創設した。

参考:岩倉使節団随行留学生(26名)人物列伝(PDF)